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第1章 パターンの形成

執事のいる暮らし

私は外交官の娘としてエジプトで生まれました。
年の離れた姉が3人いて、4女の末っ子です。

生後3ヶ月で帰国し、3歳からコンゴ、
日本を挟んで8歳からキューバ、10歳からチリに住みました。

キューバに行ったのは小学3年の時です。
姉たちは中学生以上でしたので勉強のために日本に残り、
祖母と暮らしました。

両親、そして家庭教師とともに住んだ家は、
お城のような立派な家でした。
大理石の廊下が周りを囲み、
外壁には美しい彫刻が施されていました。
広い庭には背の高い白い幹のヤシ、オレンジ、バナナ、パパイヤ、
そしてマンゴーの木がたくさんありました。

家の中は迷子になりそうなほど広く、父はよく、
「部屋に帰るからタクシーを呼べ!」
と冗談を言っていました。
食事の時はナプキンを腕にかけて
ビシッと背筋を伸ばして立った執事が部屋の隅に立ち、
私たちが心地よく食事ができているか、気を配ってくれました。

給仕は背の高いおひげのギジェルモ。
そうじ、洗濯は、住み込みのアンヘリカと
通いのメイドさんがしてくれました。

シェフは京都の有名な日本料理店から父が引き抜いたNさんで、
毎日美しくて繊細な料理を作ってくれました。

大使館には政府高官や各国大使はもちろん、有名な俳優さんや、
世界的なアスリート、ダイバー、バレエダンサーも訪れ、
おもてなしのメニューを決め、花を生け、何もかもを仕切る母と、
世界中の有名人と英語やスペイン語でにこやかに歓談する父の姿は
日本で見る姿とは違ってかっこよく、
とても偉い人たちのように見えました。

広い家で、たくさんの使用人に世話を焼かれ、
毎日美味しい料理を食べていましたが、
幼い私にとって海外での生活は、
決して楽しい思い出ばかりではありません。

記憶がはっきりしているのはキューバからです。
両親は毎晩パーティー、夕食は家庭教師と二人で、
または一人で食べました。
日本では姉たちと賑やかに食べていましたのでとても寂しかったのです。

シャム猫のベッキーとトラ猫のミミが友達になってくれ、
彼らと遊ぶのが何よりの慰めだったと記憶しています。

寂しさに加え、言葉がわからないことも大きなストレスでした。
学校に行っても英語がわからないので、ごく簡単な算数の問題も、
答えはわかっているのに答えることができず、情けない思いをしました。

外交官の子女が誘拐された事件が当時何回か続き、
その後はスクールバスに乗せてもらえなくなり、
キャディラックで通学しました。

そんな状態でしたからクラスメートからは特別な目で見られ、
いじめこそありませんでしたが、
仲間には入れてもらえず、いつも孤独でした。

父は大分出身の九州男児で、
プライベートで友人たちとお酒を飲む時は、
「俺は男の子が欲しかったんだ」
と大きな声で言っていました。
「四人も子供がいるのに、全員女。これ四番目」
そんなことを言いながら、
父は本当にがっかりした表情で私の方を見るのです。
私はその言葉を聞くたびに申し訳ない気持ちになり、
死にたいと思うことさえありました。

キューバはカリブ海にある島国ですから、学校が休みの日はよく海に行きました。
海は限りなく透明で、砂の色は純白、色鮮やかな熱帯魚が警戒心なく寄ってきます。
遠浅の穏やかな海に身を任せている時は、孤独を忘れることができました。

キューバには素晴らしいバレリーナたちがいました。
母と一緒に白鳥の湖、ジゼル、カルメンなどを見に行き、
プリマ、アリシア・アロンソの踊りにものすごく感動しました。

私も踊りたい、とあこがれましたが、同時にとても厳しい世界だと直観し、
習いたいと言い出すことはできませんでした。

本が大好きで、日本語を忘れないようにと両親が用意してくれた少女文学全集、
シートン動物記、赤毛のアン、ヘルマン・ヘッセ全集など、多くの本を読みました。

空想の世界に遊ぶのが得意で、広い庭では花や鳥たちとおしゃべりし、
歌を歌って過ごしました。

キューバではそんな大人しい子供でしたが、
小学5年でチリに引っ越してからは多少状況が変わりました。
英語が話せるようになっていたので、友達ができたのです。

カロリーナはシャイな私に優しくしてくれ、
親友と呼べるほど仲良くなりました。
苦手だった家庭教師が帰国したこともありがたい変化でした。

父、母と三人でよく旅行しました。
マチュピチュやチリ北部のアタカマ砂漠、南部の美しい湖など、
休みの度に出かけたことは今も心に残っています。

サーモン釣りを楽しみ、
釣った魚をバターでソテーしてもらって美味しく食べたこと、
パンを焚き火で焼いてもらった時の香ばしさなど、感動がたくさんありました。

豪華客船の旅もしました。船長がかっこよく、あこがれたのを思い出します。
幸せなことが増え、孤独感は多少、減っていましたが、
日本を背負っている、というプレッシャーは勝手に自分にかけていました。
そのため、体はいつも緊張を強いられていました。

体が弱く、年中風邪ばかりひいている私に両親が勧めてくれたのが運動でした。
ゴルフが大好きな父と一緒に父が所属するカントリークラブに行き、
ゴルフとテニス、両方のレッスンを試しました。

テニスのコーチ、ぺぺがとってもハンサムだったので、
不純な動機でテニスに決めました。
足は遅い、力はない、体力はないのないない尽くしでしたが、
カンが鋭かったため、相手が嫌がるポイントを瞬時に見抜くことができ、
思いがけずクラブ内のトーナメントで優勝するまでになりました。
コーチがものすごく喜んでくれたことはうれしい驚きでした。

 

 

 

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