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第6章 ピンチはチャンス

宇宙のテスト

心が歌うことだけして生きると誓った私に、
宇宙は本気度を確認するかのように、次々と試練を届けてきました。

2011年3月、母との別れが最初の試練でした。
深い悲しみが波のように押し寄せ、胸に大きな穴が空いたようでした。

立ち直る間もなく、ジョセフジャパンツアーです。
母のいない実家でジョセフとキャスリンのお世話をしました。
それはとても不自然な状態で、
初年度のような興奮を味わうことはできませんでした。

ダメ押しのようにツアー中に友人の自殺の知らせが入りました。
激しく動揺し、ミスを繰り返す自分に、私は厳しく当たりました。
「何やってるの!」
と罵倒したのです。
心は歌いませんでした。

2011年の秋、ジョセフが自分のメインテナンスのために
トルコのリトリートに参加するというので、
私はボイジャーの作者、ジェームズ・ワンレス博士を
日本に招致することにしました。

ボイジャータロットジャパンとして、初めての大仕事です。
プログラムは大成功、
みんな作者に会えて大満足でしたが、私は内心かなり不満でした。

私の語学力の問題もあるのかもしれませんが、
講座の内容が、
やって欲しいとお願いしたものとは違っていたのです。

また、今度こそと万全の準備をしていた契約締結も、
またまた見送られてしまいました。

「どうせ私の声なんてジェームズには届かない……」

そんな投げやりな気持ちになりました。
作者はボイジャータロットジャパンの認定の仕組みにも、
なぜか否定的で、
「自由なボイジャーに合わないよね」
とみんなの前で冗談混じりで言われたことには激しい怒りを感じました。

「これだけ貢献しているのに!」

という気持ちでした。

当時認定を受けたプラクティショナーは、
講座開催時にボイジャータロット ジャパンに一定額を支払う決まりでしたが、
この一言がきっかけで空気が変わり、
結局そのシステムは廃止に追い込まれ、
大きな収入源をひとつ、断たれてしまいました。

私は心が歌うことをして生きると自分に誓っていました。
心に従えば、もう二度と呼びませんときっぱり宣言すべきでした。

でも私はボイジャータロットジャパン代表として、
作者とはうまくつきあっていかなければ、という常識を無視できず、
「またきてくださいね」
とお愛想を言ってしまったのです。

作者が帰ったあと、
仕組みをめちゃめちゃにされたと被害者意識でいっぱいの私は、
ボイジャータロットジャパンを守らなければ、と危機感を抱きました。

そして商標を登録することにしたのです。
このことが後々大きな問題を引き起こすことになるとは、
この時には想像すらしていませんでした。

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